堯応上人
前回、応真上人は、永禄3年(1560年)2月25日に、「権僧正」が追贈されたと言いました。
その二日後、2月27日には、堯慧上人も、権僧正に任じられています。
さらに、天正2年(1574年)には、正親町天皇から門跡号も勅許されました。
ところが、天正8年(1580年)4月5日、一身田の御堂が焼失してしまいました。
ひょっとすると堯慧上人はその責任を取って身を引かれたのか、同年5月25日、堯慧上人の長男である堯応上人(のちの堯真上人)が正親町天皇から専修寺住持職の綸旨を与えられています。さらに堯応上人は、同時に権僧正にも任じられました。
父と同官であることを憚って堯応上人が働きかけたのか、同年6月に堯慧上人は僧正に任じられています。
御堂が焼失して2年後の天正10年(1582年)2月、御堂の再建が始まりました。
そして、同年5月3日、堯慧上人は大僧正に任じられました。ここに専修寺住持は、極官である大僧正に任じられるという先例が生まれたのでした。
天正16年(1588年)、ついに御堂が完成しました。祖師堂十八間、如来堂十六間という規模でした。
その年の千部会には堯慧、堯真、両上人がお揃いで御昇堂されて、天から妙華が降ったと言われるほど盛大であったそうです。時に、堯慧上人62歳、堯真上人40歳でした。
ところで、天正8年(1580年)の綸旨には「堯応僧正」とあり、天正13年(1585年)の綸旨には「堯真僧正」とあります。そこで天正中頃までは「堯応」を名乗り、遅くとも天正13年には「堯真」と名を改められたことが分かります。
ですから、あのお名号は、1560年から1585年の間に書かれたものといえます。もう少し絞ると、「堯応僧正」ではなく「釈堯応」と書かれていたので、権僧正になる前、つまり1580年以前でしょう。おそらくは1570年代に書かれたものなのではないでしょうか。