もしも一年後

今日は、清水研著『もしも一年後、この世にいないとしたら。』を読みました。

清水研著『もしも一年後、この世にいないとしたら。』

読みやすい本でした。本当にそうだなぁと思ったところを、少し引用してみます。

 「心的外傷後成長は、その人があるがままに病気と向き合うプロセスの中で、自然に生じるものなのです。
ですので、病気になって今まさに悩んでおられる方々には、「悲しみを経て成長しなければならない」とは決して思わないようにしていただきたいと思います。」(44頁)

ただあるがままに対象と向き合っていれば自然と変わっていくものなのに、変に「~しなければ」とか「~と思わなければ」と意識してしまうと、かえってこじれてしまうことがあります。仏教の学びでも往々にしてあることなので、共感しました。

 

 「病気を体験すると、「だれもがいつ何が起きるかわからない世界を生きている」という感覚を得て、「健常な人」と「障害を持った人」という区別がなくなるのだと思います。」(79頁)

「だれもがいつ何が起きるかわからない世界を生きている」、それが諸行無常ということです。頭では諸行無常と分かっているつもりでも、実際にはなかなか分からないものです。それが、病気などを経験することで、だんだん腑に落ちてくる。そうすると、だんだん余計な分別がなくなってくる。だから、「がんになった多くの方が、「かんになったことで、他人の苦しみに共感できる素地のようなものができた」とおっしゃいます」(78頁)ということが起こってくるのでしょう。

 

 「「死を見つめることは、どう生きるかを見つめることだと気づきました」というのは多くの患者さんがおっしゃる言葉ですが、有限を意識することは、「大切な今を無駄にしないで生きよう」という心構えにつながり、人生を豊かにします」(167頁)

本当にその通りですよね。

 

この本を読み終えて、私たち念仏者は、浄土というものをもっとしっかり医療従事者に伝えていく必要があるんじゃないかなと思いました。浄土を知った上で、それを否定したり、また別の考え方をされるのは全く問題ないのですが、そもそも浄土がどういう世界であるのかを一般の人はご存じないように思います。そして、ちゃんと浄土を伝えていないから、現代人の死生観が薄っぺらくなってしまっているのではないか、と。亡くなっていく一般の人や、亡くなっていく人と向き合っている医療従事者に、ちゃんと浄土を伝えることは、実はとても大事なことなんじゃないかと思いました。

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