現世利益和讃
16日(金)、坊守会があり、現世利益和讃の最後の5首を読みました。
現世利益とは、一般的には、病気が治りますように、とか、災いが来ませんように、とか、長生きできますように、などと祈ることで得られるご利益のことを指します。
ですが、真宗では、そういう現世利益を、あまり説きません。
というのは、それは、自分の欲望が満たされますようにと願っているにすぎないからです。
仏教では、現実をありのままに受け入れることを拒否して自分の欲望を満たそうとする時、苦しみが生じる、と説きます。
そういった欲望を鎮めて、現実をありのままに見、受け入れることができたとき、安らぎが生じる、と説くのが仏教です。
つまり、自分は変わらずに、ただ欲望のみを追い求めれば、得られるのは、苦しみであって、自分が自身の愚かさに目覚めて、自分自身が変わり、現実を受け入れられるようになったとき、安らげる、と説くのが仏教なのです。
ですから、自分の欲望を満たそうとする現世利益を、真宗ではあまり説かないのです。
ですが、現世利益和讃では、そういう現世利益を珍しく親鸞聖人が説いていらっしゃるわけです。
これについては、古来、方便説や真実説で説明されています。
つまり、息災延命(災いをとめて無事に長生きすること)や七難消滅(「仁王経」では日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難、「法華経」では火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。)などは方便で、それを願う人を真実の念仏へと誘引するもの、そして、諸仏護念等は願わずとも得られる信心のご利益として説かれた真実のものと説明されています。
ただ、初めの息災延命や七難消滅も、それを願って念仏するなら、それは求めても得られないものですが、そうではなく、お念仏に出遇ったなら、あるいは、阿弥陀仏の願いに出遇ったなら、求めずとも得られるご利益、という意味でならば、あり得る話ではないかな、と、「ストレスと仏教」についてお話ししている私には思えました、というようなお話をさせていただきました。