悲劇

10月16日は、月例法座でした。

今日はまず、「肉親のあらそいの板ばさみになったとき、自分はどうするか」という章を読みました。

争いは、お互いに相手のことを考えず、自分の利益ばかり求めるから起こります。『大経』にも

「下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。それは各自が貪りと怒りと愚かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。」

と書かれています。今も昔も変わりませんね。

このように、争っている二人は、自分の利益ばかりを考えています。

では、二人の争いの板ばさみになっている者はどうでしょうか?

これは『観経』の話ですから、息子のアジャセと夫の頻婆娑羅との争いの板ばさみになったイダイケはどうでしょうか?
イダイケが、夫を背くこともできず、子を捨てることもできないのは、なぜでしょうか?
今まで通りの状況、今まで通りの地位・立場から、離れたくないからではないでしょうか。
そうすると、イダイケもまた、自分の利益を求めている、我愛の心にとらわれているといえるでしょう。

肉親のあらそいの板ばさみになって苦しむとき、我々の自覚すべきことは、板ばさみによって苦しむ心というものも、実は、みにくく争っている人たちと同様、我愛の心に執われているためであるということでありました。そしてそれ故にまた、もし板ばさみの苦しみに悩む自分自身が、その板ばさみの苦しみを生みだしている我愛の心を本当に捨てうる道に目を開かされるならば、その道は同時に、我執をあらわにして争いあっている人たちをも救う道となるのであります。(72頁)

次に、「悲劇は人間生活にとってどんな意味をもつか」という章も読みました。

悲劇は人間にその生き甲斐を問うものであります。(74頁)
人間はなぜ苦しまねばならないのか。苦しみを真に解決するものはないのか。こんな悩みのかたちで、悲劇は人間に生き甲斐を問い、なぜ生きているのかと、生命の根源との対決を迫ります。すなわち、悲劇は人間に、人間としての大事な仕事を成就する教えを見出さしめる縁となるものであります。(74頁)

悲劇は、悲しく、苦しいことであるわけですが、それは同時に、自分の人生の本当の意味と目的を求めるべき絶好の機会とも言えます。

そういう話をさせていただきました。

紅葉

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