父のよびごえ
今年3月、元気だった父にガンが見つかった。末期ガンとのことだった。すぐに入院し、抗ガン剤治療を始めたが、2ヶ月後にはそれもできなくなった。急激に体力が低下していったからだ。お腹一杯に腹水がたまり、食事も取れなくなっていた。父は緩和ケアの病院へ転院した。
転院するとすぐに腹水を抜いてもらった。ずいぶん楽になったようだった。食欲も以前より旺盛になった。家にもよく帰ることができ、父はここで穏やかな最期の時間を過ごすことができた。
入院中、父は一冊のノートにいろんなことを書き込んでいた。来年迎える親鸞聖人750回御遠忌法会の綿密なスケジュールや人員の配置、法要の勤め方、寺報の原稿、工事すべきところ、青巖寺の歴史など。ノートには自分の墓や葬儀についても書かれていた。
6月30日未明、父は往生した。68歳だった。最期の4ヶ月、父はうろたえることもなく、やるべきことを行い、自らの生を全うして、その生涯を静かに閉じた。
父が亡くなって1ヶ月ほど経ったある日、生前に父と交わした日常的な一コマをふと思い出した。
法事に出かける私に、他の家族は「行ってらっしゃい」と言うところ、父はいつも「ありがとう」と声をかけてくれていた。住職である自分が行くべきであるのに、代わりに行ってくれてありがとう、という意味であろう。父だけが「ありがとう」と言える立場にあった。その父が今はもういない。もう「ありがとう」と言ってくれる人は誰もいない。
そのとき初めて、今まで当たり前のように受けていた挨拶が、実は、もう二度と聞くことのできない、ありがたい言葉であったことに気づかされた。
私たちはかけがえのない今を生きている。
何気ない、しかし実はありがたい言葉を交わし合いながら。
にもかかわらず、そのことに気づきもしない私に、父が今、お浄土から教えてくれている。
今恵まれている幸せに気づくんだよ、と。
まわりに支えられながら生きている今を、二度と帰ることのない今を、大切に過ごすんだよ、と。
「よびごえ」第53号 秋彼岸号 (平成22年9月15日刊)