いのちをいただく
80歳の父親を亡くされた息子さんから、何でも自分でできた故人について、いろいろ聞かせてもらいました。
「鶏も自分でさばいていました。卵を産まなくなった鶏を、締めて羽をむしって…。僕にはとても無理ですけどね」
昔、鶏をさばくのは普通のことでした。でも、今の私たちにはできなくなっています。その光景を目にする機会もありません。そのため私たちは気付かずにいます。鶏肉を食べられるのは、生きた鶏を誰かがさばいてくれているからだということを。牛や豚も同じです。
自分や愛する家族が生きているということは、同時に多くのいのちを奪っているということにほかなりません。しかし、自分の手を汚すこともなく、その光景を見ることもない私たちは、いのちに対してあまりに鈍感になっているのではないでしょうか。
スーパーの店頭に並べられたパックのお肉からは、生きていた姿が想像できません。でも本当は、その動物は生きていて、育ててくれた人たちがいて、さばいてくれた人がいて、そして店頭に並べられているわけです。
自分がやったことを人に認めてもらおうとあくせくして、自己正当化ばかりしている私たち。しかし実は、自分がやったことに執着し、自己正当化ばかりしている限り、救いはありません。自分は一体どれだけ多くのいのちを奪ってきたのか。そのいのちを育ててくれた人や、そのいのちを殺してさばいてくれた人にどれだけお世話になっているのか。やってもらっていることに気付きもせず、やったことばかり気にしている自分がどれほど罪深く愚かであることか。救われるわけがないのです。
しかし、そんな救いがたい私であるのに、その私を救おうとしてくれているはたらきがあります。自分がどれだけまわりに支えられているか教えてくれているはたらき、それが他力です。いろんな形を通して教えてくれています。内田美智子著『いのちをいただく』も、その一つです。食肉加工センターに勤務する坂本義喜さんの実話を元にした絵本、ぜひご一読ください。
「よびごえ」第58号 秋彼岸号 (平成24年9月15日刊)