無常

 精力的に活躍されていた高田派のご住職が、この間、お亡くなりになりました。まだ49歳でした。

 訃報を知らせてくださった方は「兄とも父とも慕っていました。こればかりは阿弥陀さまに苦情を言いたいほどです」とおっしゃっていました。それほど頼りにされていたということでしょう。ご遺族のお悲しみも深いことと思われます。

 もとより阿弥陀さまが生かせたり死なせたりするわけではありません。生まれてきたものは、必ず死にます。お釈迦さまはそれを無常と教えられました。

 ですが、そのことをなかなか受け止められない私たちです。もっと一緒にいたかった。もっと教えてもらいたかった。もっと、もっとと、際限なく望み続け、死も無常も頭で理解したつもりになっているだけで、心の整理がつかない私です。

 しかし阿弥陀さまは、そういう私であるからこそ救いたいと願われています。嘆き悲しむばかりか、時には阿弥陀さまさえ責め立てるこの私を救おうとされています。悲しみを遠ざけることによってではなく、むしろその悲しみをともに悲しみ、その悲しみを通して初めて見えてくる世界があることを教え示すことによって。

 その人を亡くした悲しみが深いということは、今までにその人から恵まれていた喜びがそれだけ大きかったということを。この広い世界で偶然にも出遇い、同じ時をともに過ごさせていただいた幸せを。そして、その人を亡くした悲しみを通してしか死も無常も心底分かることができなかった愚かな自分を。その愚かな自分に、愚かな自分であるからこそ、故人は身をもって生と死を教えてくださったということを。

 次は私たちの番です。私たちもまた自分のいのちを精一杯生きましょう。いのちの本当の使い方を身をもって教えていただいたのですから。

「よびごえ」第59号 春彼岸号 (平成25年3月15日刊)

前の記事

いのちをいただく