存在の重さ

7月16日は、高田短大で1限目の授業がありました。
授業の最後に、授業アンケートを行いました。昨年まではアンケート用紙を配っていたのですが、今年からは、なんと、スマホを使ってのアンケートになりました。なんだか、どんどん時代が進んでいきます。(^_^;)

16日の夜は、月例法座がありました。
「親子・夫婦・兄弟・友人のつながりは、どう考えたらよいか」というところを読みました。
昼間も法事が入っていましたし、原稿を書いて提出したりしていたので、今回はあらかじめ読む時間がなく、初めて読む文章を解説していったのですが、案外なかなか味わい深いところでした。時間も、読み終えたところで、ちょうど1時間が経っていて、終わりとなりました。

「理性とか人間の分別では、なぜ私がこういう形をとって、このような人間関係のもとに生まれ、このような環境に生きてゆかねばならないのかは、まったく謎であります。いわばそれは生まれる先の世界です。理性とか分別は生まれてからのものであります。生まれる以前のことを、生まれてから以後のものでわかろうとしても、それは無理でしょう」(p.61-62)
「悩みはあくまでも外からやってきた突発事故であります。自分ではこうなるおぼえがないのに、事実は引きうけざるをえなくなっている、そういうところにたった苦悩です。ですから、その苦悩を苦悩として引きうけれない、そういう苦悩です」(p.62)

なんとなく、このあたりは、レヴィナスっぽいなぁと思いながら、読んでいました。

「「ひとは存在する」のではなく、「ひとはみずからを存在する」のだ」(レヴィナス『実存から実存者へ』講談社学術文庫、p.49)
「「しなければならない」の根底に「存在しなければならない」を見てとったとき、そして行為の開始が、みずからを在ることと持つことに二重化し、かつみずからの所有の重みに押し潰されるという、実存の基本的構造を含みもつものと思われたとき、私たちに存在と行為の結びつきが明らかになった」(レヴィナス『実存から実存者へ』講談社学術文庫、p.50-51)

私たちが自分の存在を自覚したときには、すでに自分は存在しています。だから、行為の開始である「しなければならない」の根底には、すでに存在しているが故に「存在しなければならない」ということがあり、それが疲労を生みます。人間関係の問題も、その疲労と同質のものです。

「そういう問題と真正面から取っ組んで、そこに貪愛の固執を溶かす道を念仏の法としてしめされた『観経』の教えによって、煩わしい人間関係におしつぶされることなく、真の王位を自己の上に回復し、しかも私をとりまく一人ひとりに、書けてならない尊い地位を見出すことのできるような、修道の場としたいものです」(p.67)

そういう存在の問題、疲労の問題に、真正面から取り組むものとして、念仏の教えがある、というのです。では、どのように取り組み、どのように解決するのか、これからが楽しみです。

蓮の花