素晴らしい質問

7月12日(木)、坊守会がありました。
前回は、和讃における釈尊と阿弥陀仏の関係についてお話ししました。
ただ、和讃での解釈はむしろ特殊なので、今回は先ず前回の補足として、親鸞聖人が和讃以外で捉えられている二尊の関係についてお話ししました。
具体的には、二河白道について詳しくお話することになりました。
釈迦発遣・弥陀招喚といわれるように、二尊は別々の仏で、ともに弘願を勧めているという関係です。

ここで、何か質問はありますか、とお聞きしたら、次のような感じの質問がありました。

「阿弥陀仏と釈尊は、どう違うのですか?」

まさしくその二尊の関係についてお話ししたつもりだっただけに、「全然わからない」と言われたような気がして悲しくなったのですが、よく聞いてみると、どうやらそういう意味ではないようです。

釈尊は歴史上の人物だという。でも、例えば『観経』では、韋提希が牢屋に幽閉されて、釈尊に救いを求めると、釈尊は今まで説法していた耆闍崛山から姿を消して、突如牢屋の中の韋提希の目の前に現れたと、まるでテレポーテーションのように説かれているが、これは歴史上の人物というより、阿弥陀仏など、いろいろな経典に説かれる仏(歴史上の人物ではない仏)のように思える。一体、阿弥陀仏と釈尊はどう違うのか、と。

確かに、釈尊は応身(歴史上に現れた仏)であり、阿弥陀仏は報身(修行の報いとして完全な功徳を備えた仏身)と説明されることが多いのですが、実際、大乗経典に説かれる釈尊は、歴史上の人物というよりは、報身というべき行動をとっています。別の言い方をすれば、「大乗経典に説かれる釈尊は、歴史上の人物なの?」という問いになるでしょうか。

また、どうして大乗経典には、阿弥陀仏や阿閦仏や大日如来など、いろんな仏が出てくるのか、という質問もいただきました。

すばらしい質問で、いろいろお話しさせていただきました。釈尊の死から、教団の分裂、そして大乗仏教がどうやって興ってきたのか、などなど。

結局、それで時間を全部使ってしまい、今回お話ししようと用意していた和讃の話はできませんでした。(^_^;)

でも、まだまだちゃんとお話しできたとは言い難いので、次回も少しこの質問に答えていきたいと思います。いやぁ、いい質問をいただきました。嬉しく、なにより有り難いことです♪

半夏生