争いの原因とそこから抜け出す道

今日は、聞法会でした。
『お寺は何のためにあるのですか?』の第1章第3節「宗教の違いで紛争が起こるじゃないか。宗教は困ったものだ」と、大方の無宗教的日本人は思っています。」を読みました。

「宗教の違いで紛争が起こっているというのは事実です。しかし、それは宗教そのものが悪いわけではありません。「その宗教を信じている自分が正しい」「自分こそが正義だ」という思いこみが、紛争を起こしているのです。」(p.92)

その後、張偉(チャン・ウェイ)さんの『海をこえて響くお念仏』を紹介させていただきました。

張偉『海をこえて響くお念仏』

「正義のために戦う」、この信念は今日においても正しいことのように受けとめられていますが、この疑いようのない信念こそ「正義のために敵を殺してもよい」、「殺されたから殺す、死には死を」という戦争の論理を肯定化する口実になっています。戦争のことだけではなく、今でも、この論理が人びとの心を捕え続けているのです。」(p.28)

文化大革命という階級闘争において目にし経験した残虐な暴力のために、底知れない空洞のような人生の寂しさを刻み込まれ、そこから抜け出せなかった著者の心に響いてきたのが、親鸞聖人の言葉であり、教えでした。

「自分が正しい」、「自分が正義だ」、「自分にこそ真実がある」、そう思ってしまったら、自分以外の考えを持つ人たちは、正しくなく、悪であることになります。だから、争いが生まれます。

それに対し、親鸞聖人にとって真実は阿弥陀仏でした。そして、親鸞聖人が見つめる自分自身は、その阿弥陀仏を通した自分の姿でした。すると、自分は真実なき、煩悩いっぱいの愚かな凡夫でしかありません。ですが、その愚かな自分を、愚かであるが故に、離さないのが、阿弥陀仏です。そのことを実感した時、申し訳なく、「自分が正しい」と思っていた自分が、いかに恥ずかしく浅ましい人間であるかを知らされます。だからこそ、「自分が正しい」という思いから離れることができます。自分では離れられない「自分は正しい」という思いから離れさせていただくことが可能になるのです。これこそが、底知れない空洞から自身を救ってくれる教えだったのでした。

そういう話をさせていただきました。